勿来の関は宮城の利府町にあり。遠い古の謎に踏み込む。

2024年7月17日水曜日

歴史を感じて

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宮城県利府町『勿来の関』跡地を巡る:歴史と現代の姿

宮城県利府町にある『勿来の関』跡地。その歴史的背景から現地の詳細、周辺環境までを紹介。看板や祠、水神の石碑は当時の何を物語る。


県道脇にある目立つ看板が、ここを初めて訪れるきっかけ

ここを初めて訪れるきっかけは、県道脇にある目立つ看板でした。今日はそのお話をしようと思いますのでお付き合いください。

最初にこの辺の事を紹介します。仙台市宮城野区から宮城郡松島町を結ぶ県道8号線、通称利府街道があります。

江戸時代の頃は宿場町で旅籠は9軒あり酒造業や米屋、呉服屋等62軒の店があったとか。結構賑やかな町だったようですが、今は面影もなく東側は農村風景で西は山です。

今は8号線沿いに旅館は見当たらないようですが、裏道を行けばあるのかもしれませんね。今度探してみましょうか。

バイパスを超えて岩切橋を過ぎると徐々に店舗が見えてきます。大型店舗があり、県道を挟んで空中通路で繋がった大型スーパーが見えます。

元々は田園が広がる地域だったのですが、農業をやめて土地を手放す人が増えてきました。農業では食べるのが困難なのか建設業に従事する人が多いみたいです。

この道路はよく通るのですが、だいぶ前に車を走らせている時に「あれ、何だろう」と、ある看板が気になりました。

看板に書いてある文字は「勿来の関(なこそのせき)跡」

勿来の関を示す目立つ看板
気になる看板がこれです

勿来の関って福島県のいわき市勿来町にある。と、本で読んだことがあります。

その本は幕末の有名な吉田松陰が奥州を旅した時に著したものです。その『東北遊日記抄』に、いわき市勿来町関田字関山付近を勿来小関と記録されています。

他にも、時代劇の小説なんか読むと出てくることがありますね。

私も勿来の関はいわき市にあったものだと思っていましたから、通るたびに不思議に思っていました。

「関」の由来や役割については諸説ありますが、共通するのは「境界」や「関所」という意味合いが込められていることです。

宮城県の利府町に何故こんな看板があるのだろう。私は古代の歴史が好きなので、一度は見学してみたいなと漠然と考えていました。

google マップでこの辺を見てみましたところ、参考になるような気がしますので掲載させて頂きます。


※スクリーンショットで画像にしていますのでご了承ください。


この記事でお伝えしたいこと

「勿来の関」といえば福島県が有名ですが、同名の歴史的な場所がこの地にあるとは理解できない事で不思議ですね。

本記事では、その背景や現地の様子、そして訪問の感想をお届けします。


勿来の関を散策

ここからは現地を訪問した時の事を書いて行きますので、お付き合いください。

狭い道の奥にダムが

四年ほど前ですが、武漢ウイルス(新型コロナウイルス=当時は中国の武漢の細菌研究所から発生と信じる人が多かった=現在は例によって闇の中)のおかげで仕事が休みになりました。

その日、退屈しきっていた時に思い出しました。

あの看板の事を。

その様な訳で急遽「勿来の関」を見て来ようと思い立ち、久々にデジカメを用意して家を出ました。

看板の矢印通りに左折すると対向車が来たら、すれ違えない狭い道に入って行きます。

1分もしないうちに正面にダムの壁が見えますね「惣の関(そうのせき)ダム」です。

迫力のあるダム
正面にダム

もっと先かなと思ったら道の右側に看板の様なものがあり、その奥に祠があります。

あれは何だろう
何かありますね。

以前ネットで調べて祠(ほこら)しか残っていないのは知っていましたから、「ああ、ここか」と思い、道の反対側の駐車場に車を停めました。


水神の石碑

駐車場から見ると大きな岩があり、前に回ると水神と刻まれています。

「水神」と刻まれた石碑ですが古代の信仰の名残を感じさせます。古そうですが何時頃に建立したのでしょう。

周囲は自然豊かで、訪れるだけでも癒やされるスポットです。

水神と刻まれた石碑あり
水神とは何

水神と刻まれているからには、この辺は水が豊富だった。と、いう事になりますね。たいていは水神というと竜ですよね。

先ほどのダムは惣の関(そうのせき)ダムと言いますが。

ここの地名は「森郷」ですから森を育むだけの豊かな水があった。

検索して調べようと試みましたが、残念なことに「一致するローカル検索結果はありません」と出ました。そう、ここは田舎でした。

ローカルなんですね。googleから見ると。

否定はしませんが郷土史家って利府町にはいないのでしょうか。

何れにしても古代、いや近現代も、やはり水の豊かな地域だったと思います。この町に越したのは平成元年ですが一度も水不足になった事はありません。

それにしても、このダムの建設で史跡が消えてしまったのが残念です。

話は変わりますが、水が豊富な割には利府町は仙台市から水道水を供給されています。要するに水道代が仙台市より高い・・・どこかの主婦が嘆いています。


勿来神社

白く長い表示板の様な細長い物があります。

何か書いてある
白い柱は何かな

勿来の関跡を示す道標かなと期待したんですが、違ってますね。

「勿来神社の碑」と書いてあります。


 ちょっと残念。

 これは書体からして近代の物ですね。


 ちょっと見にくいですので拡大しました。

 どんな神社だったのでしょう。想像するしかありませんが

 そこは小高い山と言うより丘って感じです。




山全体が神社だったのでしょうね。石の階段が山頂に向かってあります。素人ながらに考えますと、この山から左側のダム湖辺りは相当に大きな神社の伽藍だったのでしょうね。

近くに寄ると祠でした
祠みたいですね。

鳥居があって山上には社があったんでしょうが、山にはこちらから見ても鬱蒼(うっそう)として何もない様ですので想像するだけですが。

でも、これが楽しいんですね。

昔の姿に想像を巡らせる 私はこれが好きで歴史に興味を持っています。


小さな祠がある

何が書いてあるか

少し広まった平地の奥に小さな祠がります。

中にも石碑とかがある

その後ろに先ほどの階段がありますが、勿来神社の祠ですね。説明する表示板があるので読んでみますね。

左の階段の上にはお寺があったのかな

源  義家の歌の様です。


見にくいでしょうから原文を書いてみました。


吹くかぜを 

なこそのせきと おもえども

みちもせにちる 山桜かな

            源 義家

と詠まれた勿来の関、今では、いわき市にあったとされる菊田の関が勿来の関に置き換えられ人々に伝えられてきました。

利府町にも古くから勿来川(名古曽川)、惣の関(名古曽の関)と呼び親しんできた地が、この地こそ勿来の関ではないかと考えられ、近世には「郷民伝えて勿来の関と呼ぶ、山上に勿来関明神祠あり、この地奥州三関の一にて胆沢鎮守府より多賀国府に通うの要路なり」と奥州名所図解にも記されています。

この地は、大野東人の進言により出羽柵へ通じた道の関門となり、また、奥郡へ通じ前九年、後三年の役やがては、戦国の世へと移りますが留守氏内紛等でどれだけ多くの兵士が往復したことでしょうか。

平時にあっては商人の通行で賑わったのがこの道です。その「大道」「板谷道」を実際に踏査し、当時の人々の思いに触れ文化を感じとってなお、近年の諸研究によれば、この周辺に勿来の関が所在していたことが確実視されています。

  七年三月末日 利府町教育委員会

この留守氏というのは伊達政宗の家臣である留守氏の先祖でしょうか。


勿来の関はここにあった

意外でした。ここが勿来の関だった。

七年とあるのは昭和か平成か、それとももっと前か定かではありません。

要するに勿来の関はいわき市ではなくて、利府町のこの地こそが正真正銘の勿来の関があった所であると書いてあります。

昔から地元の人の言い伝えがあったのでしょう。

勿来の関を歌う歌人は多くありますが、殆んどの人はこの地を訪れたわけでは無く、人伝えに聞いて歌にしたのでしょうね。

それにしても利府町は城が多いです。余程、昔から重要な地だったのでしょう。

家から割と近いところに2か所もあります。いずれも春は桜の名所となりますが今年はコロナ騒ぎも落ち着き、花見に訪れた人もいたでしょうね。

何しろ仙台でも知らない人が殆どなので以前からのんびり出来る山城址です。


軍事上重要な分岐点

表示板の上に地図があります。

この辺は人口が多かった様ですね。
寺や神社が多いですね。

見てみると勿来の関は松島と板谷への分岐点にありますね。

松島とは皆さんご存知の日本三景の一つ松島です。ここの先の一方は岩手へも通じます。板谷は調べてみると宮城県大和町板谷だと思われます。先は山形へ通じる道ですね。

古代は蝦夷(えぞ)が支配する地への分岐点ですね。軍事上重要な拠点です。

ご存知のように大和朝廷は坂上田村麻呂に蝦夷征伐を命じ、この地の近くの多賀城を拠点とします。

勿来の関は田村麻呂がこの地に来る前からあったのでしょうか。何れにしても関を築いて蝦夷を見張ったのでしょうね。

前九年、後三年の役の頃はこの地を大勢の大和軍が通過したのでしょう。大和軍の元は大陸から来た騎馬民族なんでしょうか。

そして、蝦夷の人たちは大和民族より前の先住民族か。

勿論、敗北して都へ送られる蝦夷の人達も多くいた様です。


関はどこに

神社の祠しか今は残っていませんが、関はどこにあったのでしょう。ダムの建設で跡形もなく消え去ったようですね。

周辺案内図がありますが、山を崩してダムを造ったみたいです。

以前は谷の出入り口かも
ダムの案内板ですね。

その山に勿来の関があったのでしょうか。違いますね。一々、山から下りてきたら通行人を調べることは出来ません。

山の上は広大な勿来神社があったんでしょうね。土着の神が祭られていたのでしょうか。

県道からダムの辺りまで広大な敷地があり、関を設けていたんでしょうね。

ダムは必要ですが、跡形もないのは残念で仕方がありません。

せめて発掘調査をしていれば、ここが勿来の関だと声を大にしていえるのに・・・。

勿来の関はいわき市か宮城県利府町か、今の時点でははっきりしません。新たに古い書物が発見されて、どちらか証明されるといいのですが。

でも、蝦夷征伐の為に多賀城という拠点が築かれた事実を考えると利府町ではという気がします。

東北の人間としては複雑な思いはありますが、いわき市も福島県で東北ですからね。


【結論】訪問を終えて感じたこと

宮城県利府町の『勿来の関』跡地は、福島県の同名の地とどちらが本物か、と興味をそそられます。

もしかして間違って伝えられたのか、それとも地域的にどちらも蝦夷の境にある関所で実在していたのかもしれません。

なにしろ、今まで書いてきた通りですからね。せめて神社が細々とでも残っていれば資料も残っていたんでしょうけれど。

恐らくは戦火で焼失したんでしょうね。

そのうちに、農家から当時を示す古文書でも出て来ると面白いのですが。


「歴史を感じて」に関する記事をまとめています。宜しければどうぞ。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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hiroくんです。はじめまして。このブログは川柳を書いて楽しんでいます。その他に趣味の家庭菜園ブログや、子供の頃から飼ってきた様々なペットを題材にしたブログもあります。ちょっと気になる事を書いているブログもあります。今まで一つのブログに雑多に入っていましたが4つのブログに分ける事にしました。その方が来ていただいている方にも良いのでは。と、思ったからです。どうぞ宜しくお願いします。

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