将門の妹が宮城に落ち延び尼となり一族の菩提を弔う。道端の道標がなぜか悲しい。
お早うございます。
今日は狭い坂の途中にある石碑のお話をさせて下さい。
私は宮城県に住んでいますが、通勤とかの途中で見かけると石碑があったりしますね。何だろうと興味を持って調べたりします。
そうすると昔この辺に大きなお寺があったとか、元寇の時の捕虜となった元の兵士の首をはねた場所があるとか、いわゆる蒙古塚ですね。
博物館が立っているところが昔は伊達家の馬場だったとか、青葉城の大手門跡近くの小さな沼「長沼」がフィギュアスケートの日本の発祥の地だったと分かったりします。
由来が分かると、これはこれで結構楽しいものです。
この記事はその中の一つで、狭い両側通行の坂道の途中に見つけた、何気ない石碑ですが私にとっては大発見でした。
比丘尼坂の石碑
平将門をご存知ですね。平氏一族の争いに乗じて朝廷に対して東国の独立を宣言し、新皇を宣言したが、最後は破れた人です。
その妹が宮城に落ち延び、尼となり一族の菩提を弔らいました。それを伝える石碑が比丘尼坂 (びくにざか) にあります。
仙台市中心部より松島方面へ向かう県道8号線沿いに、宮城野区燕沢という所がある。
左折し暫くするとSEIYUがある。それを左に見ながら直進すると、正面に狭い坂が見える。
これが比丘尼坂です。
車がやっとすれ違える急な坂で、
少し昇って行くと緩やかなカーブがあるが、そこに石碑が建っています。
比丘尼坂と刻まれている。
車でしか通った事の無い坂ですが、何の石碑か気にはなっていました。
坂の手前の空き地に車を止め見に行くことに。
普段は狭い割には車の往来が多く、歩くなんて危険極まりない道路で、ゆっくり調べる事は出来ませんが、幸い今日は休日で車はめったに通らない。
カメラを持参して来ましたので撮りますね。
大きく「比丘尼坂」と刻まれている。
側面を見ると、何やら書かれているので読んでみる事に、何と平将門(たいらのまさかど)の妹に関する石碑であった。
意外な発見にビックリしました。
石碑には興味を魅かれる文字が刻まれている
下の画像ですが、文字が刻まれています。果たして何と書いてあるのでしょう。
「平将門が滅ぼされた時、その妹が相馬御所を逃れてこの地にたどり着き、比丘尼となって庵を結び、道行く人々に甘酒を造って売ったと伝えられる。
※比丘尼とは尼さんの事で女性のお坊さんです。相馬御所というのは福島県の海沿いの町の相馬でしょうね。
この甘酒はのちのちまで伝わり、案内の湯豆腐や今市のおぼろ豆腐、今市足軽 (ここより数キロ行くと今市橋と言う橋があります。
その地域に住んだ足軽でしょう) が内職として作った今市おこし等と、共に塩竃街道の名物となった」と刻まれています。
調べてみると分かったのですが、この妹は兄の野望を嘆き相馬御所に身を隠しました。この辺は勝った方の解釈かも知れませんね。歴史とはそんなものです。
将門が殺された後。海路を選んで逃れ、辿り着いたのは石碑の近くの小鶴という地です。
石碑のある坂の由来
伊達政宗が仙台に城や城下町を作る以前から、この坂を通って松島方面へ向かう「塩竃(しおがま)街道」と呼ばれていた古道です。
坂を上りきって、国道4号線にかかる車が1台通れる狭い橋を渡って、暫くすると岩切の今市橋に至ります。
すぐ側に平坦な道があるのに、なぜこの坂を含めたのかちょっと不思議ですね。
庵を結び菩提を弔う
妹はこの地に庵を結び、一族の菩提を弔いました。
その後、茶屋を建てて道を行く人に甘酒を作り、売ったと伝えられています。
甘酒はご存じのごとく「飲む点滴」「飲む美容液」として評判ですよね。
当時は旅人や野良仕事の人にとっては最高の飲み物です。
大変な美人で人気
しかも将門の妹は大変な美人でしたので、大いに評判を呼び「比丘尼茶屋」と呼ばれる様になり、この地を「比丘尼坂」と呼ぶようになりました。
会ってみたいと思うのは私だけでしょうか ?
その当時、大変な塩竃街道の名物となったようです。
庵のある坂を塩竃街道に組み入れたのは、評判の比丘尼の顔を見たいためと、兄の将門を少しでも慰霊する為かもしれません。
将門の人気は坂東(関東)以北の東北でも絶大だったようです。
平将門の乱
935年から940年ころに起きた平将門が起こした乱です。
その背景には国の乱れがありました。特に地方では朝廷に任された国司やその家来ががやりたい放題の悪政をしていました。
平安時代というのは凄く華やかな時代と評されています。
それは京を中心とした貴族階級と地方の豪族だけの話で、一般庶民は食べるのもやっとという暮らしだったとか、どなたかの小説に書いてありましたね。
多分その通りでしょう。
その為地方の情勢は悪化し、武力を持つ集団が多く現れます。国司も武装化し、しかも、規模の小さい武装集団を吸収し大集団を形成していきます。
将門の祖父も上総(かずさ)の国の国司として赴任しますが、任期が終えても居座り続け、大武装集団を形成し、一層勢力を拡大していきます。
将門の父が死去して、家督相続をめぐって争いが起こります。
海音寺潮五郎さんでしたっけ、その人の小説では将門がまだ若いので叔父たちが領地の一部を私物化し、返そうとしない事から争いがおきたと書かれていますね。
ついに将門は祖父を殺害し、事の成り行き上国府を攻撃してしまいます。
元々は平家同士の内輪の争いですが、周りの武装勢力も味方に付き将門の勢力は強大になっていきます。
所領から産する豊富な馬で騎馬隊を組織し、戦ったと伝えられていますね。
将門はほゞ坂東(昔の関東地方の呼称)全域を手中に収め「新皇」を名乗ります。
初めは将門を利用しようとした朝廷も討伐に決し、凄まじい戦闘が始まりますね。
将門は地元の京の朝廷方の武士団と戦っている際に、敵の射た矢が額に突き刺さり闘死しました。
この乱は武士により鎮圧されたので、武士の力が注目されるようになっていきます。
首塚の怨霊が有名
将門の首は京都の七条河原にさらされたが、何ヶ月たっても目を見開き、歯ぎしりしていたとの言い伝えがある。
首は故郷を目指して天高く飛び立っていった。
その為か、あちらこちらに首塚の伝説がある。
占領軍もお手上げ
特に有名なのは、日本を占領した連合軍のGHQが自分たちの工事の計画を立てる際、首塚が邪魔で何度も移転しようとしたが、その都度事故が起こるので、ついに断念したとか。
若い頃に東京に転勤しており、聞いたことがあります。どうも東京の下町では実話として今でも信じられている様です。
世の中には不思議な話があるものですね。
それだけ悔しい死に方をしたという事でしょうか。
妹の名前が分からない
何とか、比丘尼坂の将門の妹の名前を知りたくて検索しましたが分かりません。
何しろ1000年以上も前の事ですから・・・。
現在は住宅が所狭しと立ち並んでいますが、この辺一帯がお寺だったのでしょうかね。
当時は長い坂を登りきるとお寺の大きな山門が見えてきたりして。
こんな感じで想像したくなりますね。
将門の名誉が復権
将門の名誉は太平洋戦争が終結して日本が敗戦国となり復権します。
それまでは大逆賊です。特に明治政府には嫌われたようですね。
後書き
普段、何気なく通り過ぎているところに意外と興味をそそられる物がありますね。
今回は気になっていた石碑の「比丘尼坂」という文字が意外な真実を教えてくれました。
知りたいと思っても、開発されて無くなった物も結構あると思うと残念ですね。
「歴史を感じて」に関する記事をまとめています。宜しければどうぞ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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